2010年09月16日

ヨーロッパ旅行記【西ドイツ編】1−4 神聖ローマ帝国

フランクフルトで特別見たいものもないので、もう一つ別の街に行ってみることにした。
最後までユーレイルパスを活用するのだ。

というわけで、特急に乗って最後の街マインツへ。

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マインツは聖堂の街。かつてマインツ大聖堂はドイツ全体の教会を束ねる、首位大司教座で、マインツの司教は金印勅書で神聖ローマ皇帝を選ぶ7選帝侯の筆頭に数えられていた。

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そもそも神聖ローマ帝国とは何だったのか。
大雑把に言えば、962年から1806年にドイツ周辺に存在した帝国だが、これがかなりややこしい。

もちろんその名は古代ローマ帝国から来ている。11世紀にローマ帝国と呼び始め、やがて神聖帝国、神聖ローマ帝国、ドイツ人の神聖ローマ帝国と少しずつ名前を変えていった。

神聖ローマ帝国は、古代ローマ帝国からカール大帝のフランク王国(800年〜)に引き継がれた王権(帝権)を継承する正統な国家を主張していた。初代皇帝はオットー大帝だが、ドイツではフランク王国から続くことを強調して、カール大帝を初代とする考え方が主流のようだ。

元々ドイツは諸侯(上級貴族や司教など)の支配する小国家の集まりで、バイエルンやザクセンなどの各諸侯が強い力を持っていた。神聖ローマ帝国は名前こそ皇帝中心の中央集権国家のようだったが、実態はドイツ地方を中心とする緩やかな連合国家だったのだ。

皇帝は一応イタリア王でもあったのだが、国名になっている肝心のローマは勢力範囲に含まれていなかった。そのため、帝国はイタリア政策と称してイタリアへの侵略に執着したため、国内の統合が遅れてしまう原因にもなってしまった。

ちなみにカール大帝がかつて教皇から戴冠されたように、神聖ローマ皇帝もローマ教皇から戴冠されることになっていた。一方で、古代から続く東ローマ帝国(ビザンティン帝国)は依然として東方に残っていたため、お互いをローマ帝国と認めていなかったようだ。

神聖ローマ帝国にはいくつかの王朝があったが、本来は選挙制で王を選んでいた。ここで「王」と書いたが、これはドイツ王のこと。実は帝国といっても常に皇帝がいたわけではなく、教皇に戴冠されて初めて皇帝を名乗れたようだ。

やがて13世紀にホーエンシュタウフェン朝が断絶すると「帝国なのに誰も皇帝に選ばれない」というまさかの大空位時代となる。諸侯は操りやすい皇帝を選ぼうと帝国外から候補者を選ぼうとしたが、どれもうまく行かなかった。そんなこんなで20年も皇帝がいない時期が続いてしまう。

やがて諸侯の間で無能で操りやすいと思われた、スイスの辺境ハプスブルク家のルドルフが皇帝に選ばれた。だが、ルドルフは思いの外優秀で結構な力を持ってしまったので、しばらくハプスブルク家は皇帝に選ばれなくなってしまった。

やがて1356年、金印勅書が発布された。神聖ローマ帝国の体制を示す文書だ。

これによって神聖ローマ皇帝は有力な7人の封建領主による選挙で選ばれることになった。こないだのケルン大司教や、ここマインツの大司教もその一人だ。

この金印勅書によって、選帝侯は強大な権力と自治権を持つことになった。皇帝の戴冠に関しても、教皇の承認は不要ということになる。

だが、15世紀にヨーロッパの名門となったハプスブルク家が再び王位を掴んでからは神聖ローマ帝国は最後まで世襲化され、選挙は有名無実化してしまった。

その後マクシミリアン1世の時代に窮乏した皇帝に対して、マインツ大司教が皇帝の権力を帝国から分離することを要求したため、ドイツはさらにまとまりがなくなった。

そして1648年、30年戦争のウェストファリア条約で、ついに皇帝の権利はほとんど剥奪されてほとんど諸侯の一人のような扱いになってしまった。

結果、ドイツは弱い皇帝のもと、有力な諸侯による地方分権が進んだ国として歩んだ。フランスの思想家ヴォルテールはもはや「神聖ではなく、ローマ的でもなく、帝国でもなかった」と皮肉っている。

これが神聖ローマ帝国、ヒトラーの言う、ドイツ第一帝国の歴史だ。

ここではマインツ大聖堂とグーテンベルク博物館の入り口だけ見てフランクフルトへ戻った。

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実はタイムアップで中に入れなかったのだ…

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▲キティショップ。サンリオはすごいなぁ。
posted by Magic at 23:54| Comment(0) | ヨーロッパ旅行記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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