2010年08月21日

ヨーロッパ旅行記【北ドイツ編】2−9 ベルリンの壁

ユダヤ博物館を見た後、ベルリンの中心地、ポツダム広場へ移動。

ここはさっきのポツダムの街にちなんで名付けられた、ベルリンの代表的な広場。かつてはヨーロッパの経済の中心地だったらしいが、第二次大戦によってベルリンが分割された時に境界線になってしまったため、人が入れない地域になってしまった。

しかしベルリンの壁崩壊後は開発が進み、今では近代的なビルが建ち並ぶベルリンを代表する商業エリア、観光スポットになっている。

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ベルリンはポツダム広場を4つの地区に分け、ダイムラー・ベンツや日本のソニーに開発を任せた。巨大な複合施設ソニー・センターは、ソニーのヨーロッパ本社として建造され、今に至るまでベルリンの象徴になっている。(…が、ソニーからは売却されたようだ。)

ここには、あのベルリンの壁が一部だけ残っている。

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壁があった地面は色が変わっている。

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高さとかこんな感じで、割と薄い。これが壁一つで、これを並べていたらしい。

ここでベルリンの壁について説明しておこう。

俺も昔世界史の授業で習うまで勘違いしていたのだが、実はベルリンの壁は別に東西ドイツの国境だったわけではない。

意外とみんな勘違いしているので、戦後から壁ができるまでの歴史を順を追って見ていこう。


(1)ドイツの分割

第二次大戦でヒトラーが自殺した後、敗戦国ドイツは米英仏ソの4カ国に分割統治された。日本はアメリカの単独統治だったが、ドイツの場合は4つに引き裂かれたわけだ。

ベルリンは4分割されたうちのソ連領内部にあったが、首都だったので特別扱いで4カ国の共同管理ということになった。

立地的には完全にソ連領内の孤島状態で、ソ連とその他3国はベルリンの支配を巡って対立した。

結局ベルリンはドイツ本土と同様に、実質西側は米英仏、東側はソ連領となり、2分割されることになった。

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▲東側はドイツ領、西側は米英仏の領土


(2)ベルリン封鎖

そしてまもなく冷戦が始まった。

西側三国はドイツの復興を目指していたが、ドイツからの被害が大きかったソ連はなりふり構わずドイツから回収するため、ドイツの紙幣印刷機を奪ってお金を勝手に発行し始めた。そんなことをしたら、もちろん激しいインフレになってしまう。

西側がこれに対抗してドイツ西部と西ベルリン用の新紙幣を発行しようとしたので、怒ったソ連はベルリン全体を封鎖した。

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▲ソ連によって、ベルリンが丸ごと封鎖された


ソ連はベルリンに西側諸国からの物資を運ばせないために、ドイツ西部からアウトバーンや鉄道でつながっていた西ベルリンを陸路・海路ともに封鎖した。大都市西ベルリンは飢餓の危機にさらされ、ソ連はそのまま西ベルリン市民を取り込もうとした。

しかし西側諸国はこれに対抗して、大量の物資を西ベルリンに空輸し続けた。封鎖は意味をなさなくなって解除された。




(3)西ドイツと東ドイツ

ベルリン閉鎖から、ドイツ西部と西ベルリンはソ連への反感を強めることになる。やがて西部ドイツは「ドイツ連邦共和国」(西ドイツ)として独立した。

一方、東側はこれに対抗して「ドイツ民主共和国」(東ドイツ)を建国。かくしてドイツは2つに分裂した。

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▲東西に二つのドイツが建国された

ちなみに東ベルリンは東ドイツの首都になったが、西ベルリンは西ドイツの一部ではなく、一応米英仏3国の共同管理という立場を維持することになった。











建国前分裂後首都政治
ソ連領東ドイツ(ドイツ民主共和国)東ベルリン共産主義
米英仏領西ドイツ(ドイツ連邦共和国)ボン資本主義



(4)ベルリンの壁

東ドイツはその名に反してちっとも民主的ではなかったため、東ドイツ領内にあった西ベルリンは「赤い海に浮かぶ自由の島」と呼ばれていた。

この頃はまだ、東西ベルリン間は行き来ができていたので、政府に嫌気がさした東ドイツ住民は、

東ドイツ→東ベルリン→西ベルリン→西ドイツ

というルートで西側に逃げ出し始めた。

これに業を煮やした東ドイツの政府は市民の流出を食い止めるため、強硬手段に出る。
1961年の8月のある日、突然一夜にして西ベルリンを有刺鉄線でぐるっと取り囲む形で閉鎖したのだ。やがて有刺鉄線は壁に変わった。

東西ベルリンの往来が自由だった時期に、一夜にして壁ができたため、これによって引き裂かれてしまった家族も沢山あった。

これがベルリンの壁だ。

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▲赤い太線がベルリンの壁。西ドイツと壁の内側はつながっている。


これ、東西ベルリンの間にだけ壁ができたわけではないのがポイント。西ベルリンが丸ごと囲まれている。

最初は鉄条網だった境界線は壁になり、さらに壁は二重になった。

どんどん強化された壁は、最終的に幅100メートルの分離帯ができ、下の全ての関門を一気に越えないと越境ができなくなった。

<東ベルリン>
1.3〜4メートルの壁
2.杭が打たれた地面
3.2メートルの金網
4.亡命者検知用のケーブル
5.鉄条網
6.監視塔
7.番犬エリア(600頭)
8.足跡がつく砂地
9.幅3.5メートルの溝
10.夜でも明るい街灯エリア
11.パトロール用の舗装道路
12.フェンス
13.開口部分
14.西側の壁 ←西ベルリンからはこれだけしか見えない
<西ベルリン>

壁自体を乗り越えるのはほぼ不可能で、何らかの手段で壁を越えようとした人間は逮捕されたり、最悪射殺されたりした。監視兵は14000人もいたそうだ。


実際、壁が無くなるまでに239人が射殺されたが、それでも5043人が何らかの手段で脱出に成功した。

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▲ポツダム広場にある、ベルリンの壁の図


西ベルリンはこれで物理的に孤立した。

しかし、西ベルリンと西ドイツとの間はアウトバーン(高速道路)、列車、空路などで行き交いすることができた。もちろん、鉄道も道路も東ドイツ領は通り過ぎるだけだが。

かくして、28年後に壁が崩壊するまで東西ベルリン間は閉ざされてしまったのだ。
posted by Magic at 23:58| Comment(0) | ヨーロッパ旅行記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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