2010年01月01日

トルコ旅行記3−2 セルジューク朝

食後ちょっと休憩した後、またしばらく走ってコンヤに到着する。
コンヤの話をする前に、ちょっとトルコの歴史について説明しよう。

トルコと名のつくイスラム王朝は世界史に二度登場する。一度目はセルジューク・トルコ、二度目はオスマン・トルコだ。

ムハンマドの死後しばらくして、イスラム教(スンナ派)の指導者はカリフと呼ばれるようになった。カリフとは預言者ムハンマドの代理人で、最初はヨーロッパでいうローマ教皇兼皇帝に相当する絶大な権力者だった。妻帯が許されないローマ教皇とは違い、カリフは基本的に世襲とされていて、ムハンマドの一族の血を引くとされるウマイヤ朝、大帝国を築いたアッバース朝へと引き継がれていた。だが、イラクを支配したシーア派ブワイフ朝に実権を奪われ、カリフの権力は弱体化してしまう。

そこに現れたのがセルジューク朝だった。セルジューク族のトゥグリル・ベクは1055年アッバース朝カリフに忠誠を誓い、ブワイフ朝を滅ぼした。アッバース朝は見返りとしてセルジューク朝に史上初めてスルタンの称号を認めた。宗教的指導者であるカリフと、世俗的指導者であるスルタンの権力が分裂した瞬間だ。以降、スルタンはイスラム圏の皇帝、カリフは教皇的な位置づけとなる。日本で言うと将軍と天皇のような関係に近い。

やがてセルジューク朝は1071年のマラズギルトの戦いで東ローマ帝国との戦争に勝利し、アナトリアを支配下に置いて分家のルーム・セルジューク朝を建国した。東ローマ帝国だったアナトリアは正教会のキリスト教徒が大半だったが、これを機にイスラム化が進んでいく。これが今のトルコの起源だ。

ルーム・セルジューク朝は最初ニケーアを首都としていたが、第一回十字軍によって包囲され、首都をコンヤに移した。12世紀にセルジューク朝本体は滅びたが、地方政権だったルーム・セルジューク朝は14世紀初頭まで続いた。

というわけで、コンヤは事実上セルジューク朝最後の都ということになる。

ちなみに「ルーム」とはローマの意味。イスラム勢力から見てアナトリアは東ローマ帝国の領域だったため、アナトリアをルームと呼んでいたそうだ。

長くなったので今日はここまでにしとこう。。
posted by Magic at 16:25| Comment(0) | トルコ旅行記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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